片倉工業株式会社
富岡(製糸)工場は、明治5年(1872年)日本の近代国家への礎石として、明治新政府が総力を結集して国営で創設された、わが国最初の工場化された産業施設であり、歴史的な建造物である。
創設以来130年余!!国営から民営と変遷を経るも常にわが国近代産業の象徴として、また日本蚕糸工業の模範工場として貢献し、輝かしい由緒と伝統の上に業界に誇る最新機械設備をもって発展して来た、貴重な工場である。
1.創立の経緯
1) | わが国の生糸は、安政6年(1859年)の開港により欧米各国に輸出されるようになり、明治新政府は国を富ます途は「貿易による外貨の獲得」であることに着目し、「生糸の輸出振興」を主政策の一つとして近代生産方式(技術革新)により、産業の育成を図ることになった。 明治3年3月廟議により、わが国産業のモデル工場として大規模かつ洋式機械の導入による富岡製糸場の建設が決定された。 |
2) | この実現には大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一の諸氏の努力があり、同年6月フランス人ヂブスケ(旧幕府時代の外交顧問)及びフランスの商人カイセンハイメルを介し、フランス人技師ブリューナを傭聘し、製糸業に関しての見込書を提出させ、政府はこれを全面的に採用、工場設立を急いだ。 |
3) | 工場設立の選定には、松井清蔭(監督権正)、尾高惇忠(庶務少佑)及びブリューナ等が当たり最適地を富岡!と決定した。その要因は…… |
① | 付近一帯が旺盛なる養蚕地で、優良な原料繭の確保ができること。 |
② | 作業用水が最適かつ豊富であること。(妙義山を源とする高田川の引水、また脚下には鏑川の清流がある。) |
③ | 用地は代官陣屋跡(富岡平城跡といわれる。)が民有地になっており、広大でかつ買収が比較的容易であること。 |
④ | ボイラー燃料としての石炭(亜炭)の採掘が可能であること。(工場用蒸気エンジンをわが国はじめて使用する。) |
⑤ | 南に鏑川、北に流れる高田川にかこまれた富岡の平地、これを囲む稲含、荒船、妙義の山々が描く山水明媚が一行を魅了した。 |
2.創立の模様
1) | この大事業の創立関係者は、玉乃正履(民部権大丞)、杉浦譲(地理兼駅逓権正)、尾高惇忠(庶務小佑)、渋沢栄一(大蔵小丞)、中村佑興(監督正)が民部省より発令され、ブリューナと共に直ちに現在富岡に赴き敷地買収を完了した(面積15.608坪 1段当り25両 合計1,210両)。 | ||||||||||||||
2) | 富岡は東京より120kmの行程にあり、当時の戸数620戸、人口2,115人であったと記録されている。 | ||||||||||||||
3) | 土木建築の意匠は、ブリューナが担当、工場建築群の設計者はブリューナの推すバスチャンに依頼した。{バスチャンは、幕府が横須賀製鉄所(後の海軍工廠)建設のためフランスから招いた技術者の一人である。} | ||||||||||||||
4) | 設計図は明治3年12月26日完成、条約第3条に「建設はブリューナ氏へ問い合わせの上、日本政府は之を定むべし」から推して、バスチャンの設計図に基き(すべてメートル法による設計)実際の施工(造営)は日本政府が行ったものといえよう。 | ||||||||||||||
5) | 建築資材……明治4年正月、尾高惇忠等は一切の建築資材の入手準備を開始、何分、当時日本においては想像もしない煉瓦2階建の大建築であったことから、未曾有の苦難が伴ったことがうかがえる。 しかし、この苦心は大工場の創設を機に、富岡を中心とした甘楽地方また群馬県下はもとより我が国の近代産業を発展させる母体となったことは特筆すべきことである。
こうして官民一致協力によって1年と7ヶ月後には、主要建物及び付属建築物が建設された。 |
||||||||||||||
6) | 主要建造物( )は当時の名称である。
以上、今日なお健在を誇っていることは、基礎の強固なこと、木骨張壁構造の合理性に加えて堅牢明快な工作等が起因しており、柱の変動沈下を全く防止したことにあるといわれている。 |
3.開業
1) | 明治5年に入り建設工事は大巾に進捗し、女子従業員と原料繭の収納準備を開始し、創立主任者尾高惇忠(初代工場長)は、卒先郷里より長女ゆう(当時13才)を入場させたほか、各県から当時の戸長及び旧藩士の子女が404名入場した。 この中には、信州松代旧藩士横田数馬の娘、英「富岡日記の著者」、小松鉄道大臣の妹、侯爵井上薫の姪、鶴子、仲子、長州藩の重臣長井雅楽の長女貞子、徳富蘇峰の姉、音羽女史等、知名の子女が多数含まれていた。 |
2) | 明治5年10月4日、栄えある歴史的な開業の汽笛が高らかに鳴り響いた。思えば、この汽笛は日本近代産業の第一声であり、わが国製糸工業としての第一歩であった。 |
3) | 入場した子女たちは伝習生としての誇りも高く、「近代日本の発展」の大理想に燃えて、フランス人女教師から熱心に技術を習得した。技術習得して帰郷した子女たちは、いわゆる「富岡乙女」の名声のもとに全国に活動し、我が国産業の近代化と機械製糸工業の発展に活躍し、大きな貢献とその使命を果している。 |
4.経営
当工場における経営の変遷は下記のとおりである。
①政府時代 | ||
初代工場長 | 尾高 惇忠 | 明5.10~明9.11 |
2代 | 山田 令行 | 明9.11~明12.3 |
3代 | 速水 堅曹 | 明12.3~明13.11 |
4代 | 岡野 朝治 | 明13.12~明18.2 |
5代 | 速水 堅曹 | 明18.2~明26.10 |
②三井時代 | ||
6代 | 津田 興二 | 明26.10~明29.5 |
7代 | 小出 収 | 明29.5~明30.3 |
8代 | 藤原銀次郎 | 明30.3~明31.9 |
9代 | 小出 収 | 明31.9~明32.3 |
10代 | 津田 興二 | 明32.3~明35.9 |
③原時代 | ||
11代 | 津田 興二 | 明35.9~明38.11 |
12代 | 古郷 時待 | 明38.11~明42.2 |
13代 | 大久保佐一 | 明42.2~昭8.12 |
14代 | 横山 秀昭 | 昭8.12~昭13.7 |
④片倉時代 | ||
15代 | 尾沢 虎雄 | 昭13.7~昭15.8 |
16代 | 紺野 新一 | 昭15.8~昭16.4 |
17代 | 矢崎 京二 | 昭16.4~昭21.8 |
18代 | 西本 清 | 昭21.8~昭22.4 |
19代 | 坂出董太郎 | 昭22.4~昭27.3 |
20代 | 福沢 金一 | 昭27.3~昭30.2 |
21代 | 鈴木 正一 | 昭30.2~昭33.6 |
22代 | 江島 正巳 | 昭33.6~昭43.1 |
23代 | 坂根 定信 | 昭43.1~昭44.2 |
24代 | 松崎 昇平 | 昭44.2~昭47.3 |
25代 | 佐用 満男 | 昭47.3~昭54.3 |
26代 | 福元 昶 | 昭54.3~昭60.3 |
27代 | 橘高 辰巳 | 昭60.3~昭62.3 |
(昭和62年3月5日工場休止) |
5.操業時の状況
工場の敷地面積 57.188㎡
工場の建物 建面積 17.826㎡ 延面積 23.749㎡
設備 ニッサン(24型)自動操糸機 10セット
生糸生産高 年間約6,000俵(1俵60kg) 従業員 約200人
知事認可の片倉高等学園併設
昭和62年3月5日 操業を中止し、現在管理事務所を置いて管理保全をしている。
6.工場の栄光
皇室におかれては、わが国の発展には蚕糸業が国富の根元であることを御賢察なされ、特に創業まもない明治6年6月明治天皇の御内示を受けられて昭憲皇后、英照皇太后の行啓となり、工場をつぶさに御賢察され
いと車 とくもめくりて大御代の
富をたすくる道ひらけつゝ
とる糸の けふのさかえを初めにて
ひきい出すらし国の富岡
の御歌を御吟詠なされ富岡工場に深い御心をよせられたことは誠に感激の次第である。
1) | 行幸 明治35年6月2日 大正天皇陛下(皇太子時) 昭和21年3月25日 昭和天皇陛下 昭和44年7月31日 天皇、皇后両陛下(皇太子時) |
2) | 行啓 明治6年6月24日 昭憲皇后陛下、英照皇太后陛下 昭和23年6月6日 貞明皇太后陛下 昭和42年8月10日 皇太子殿下(浩宮徳仁親王時) |
3) | 侍従御差遣 明治23年10月4日 東園基愛侍従 昭和9年10月15日 久松定孝侍従 昭和17年7月13日 入江相政侍従 |
4) | 皇族御視察 大正3年10月1日 梨本宮殿下 昭和18年9月20日 閑院宮殿下 昭和45年7月8日 高松宮殿下 昭和46年11月3日 秩父宮妃殿下 昭和58年10月19日 常陸宮殿下、同妃殿下 |